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Soy Sauce Studio 『夏の夢をみていた』

 この文章はcorner of kantoのベース、成塚優貴のソロプロジェクト、Soy Sauce Studioの『夏の夢をみていた』のミュージックビデオの解説である。序文にあたる「1.はじめに」はSoy Sauce Studioのホームページ上にあるブログに掲載しているので、まずはその文章から読んでもらいたい。

 

→Soy Sauce Studio HP

 

2 思い出の美しさについて

夏の日を埋めた祈りの中に

今も思い出が浮かぶことがある

荒染めの夕空に満たされるのは

幼少の記憶 カイトは空を分かち宇宙を舞う

 

俺たちが歌う景色

群青の風がそっと頬撫でる季節の調べ

 

旅立の朝の惜別の痛みも今はもう遠く消える

過ぎ去った日々を追いかけるのは

こんなにも愛していた夢を見ていた時代の名残

 

夢を見ていた

 私がミュージックビデオを作る時には、いつも歌詞を分析することから始めているので、解説でも歌詞の分析から始めたい。

 この歌詞を読んだ時、過去の美しさとそれに対比されている現在の寂しさを感じた。「カイトが空を分かち宇宙を舞う」のも、「俺たちが歌う景色」も、「群青の風がそっと頬撫でる季節の調べ」も非常に美しい幼少期の記憶である。タイトルの『夏の夢をみていた』という言葉にも、幼少期の思い出を「夏の夢」という、儚く美しいものとして思い出していることが表現されている。また、冒頭とサビの歌詞から推測すると、この歌詞の中の主人公は、ここで描かれている美しい過去の情景を思い出し、それが遠く消えてしまったことに寂しさを覚えているように感じる。

 しかし、その過去は本当に美しかっただろうか。現在の視点を通して過去をみているからこそ美しく見えているのではないだろうか。もっと言えば、現在の視点を通してのみ、過去が美しく語られるのではないだろうか。

 私自身、小学生の頃に川遊びをしたことや友人の家で夕方遅くまでお喋りをしたことなどを思い出して「昔はよかった」とか「あの頃は楽しかった」と思うことがある。しかし、よく当時の気持ちを思い返してみると、過去のまさにその瞬間には、「よかった」や「楽しかった」と感じていた記憶はない。現在進行形で出来事を体験している時、それが日常の些細なことだったとしても、目の前のことに一生懸命で感情を抱いている余裕はない。ある体験への感情やイメージは、あとから振り返ってみた時に初めて湧いてくるものだ。つまり、美しい過去の情景は、過去の時点では実は存在しておらず、現在の私たちの頭の中で思い出として作り出されているのである。

 以上のように考え、このミュージックビデオでは、美しい思い出のイメージが現在の視点で作り出されているということを表現している。この映像の中には、主人公が公園で凧揚げをしたり、シャボン玉で遊んだりするシーンがある。これらのシーンは、美しい過去の回想として、実際に子供たちが遊んでいるところを撮影する方が一見適当に見えるだろう。しかし、先ほど書いた通り、これらの美しい過去のイメージは現在の主人公の視点で作り出されている。もう大人になってしまった主人公が、彼の頭の中で、凧揚げやシャボン玉で遊んでいた思い出を作り上げているのだ。そのことを客観的に映像化すること、これらのシーンの意図である。

 このミュージックビデオは、どのシーンも作品内のある地点から見た過去になっている。また、当然のことながら、この映像の中での現在進行形の時点も、映像を観る時には過去である。この映像を見ることで、主人公と一緒に美しい過去を一緒に思い出してもらいたいという思いを込めている。

 

 

 

3 映像における「疾走感」の表現

 次に、映像表現で拘った箇所について、映像における「疾走感」をキーワードに解説していく。『夏の夢をみていた』は、静かなアルペジオから始まり、「俺たちの~」と歌が始まるあたりで少し雰囲気が変わる。そして、疾走感のあるギターソロが始まり、切ないサビ、最初に戻っていくアウトロと展開していく。この曲を映像で表現するなら、ギターソロの箇所は疾走感がなければいけないと思った。

 これまで私が作ったミュージックビデオは、カメラならではの視点で速さを捉えることの面白さを重視していた。例えば、corner of kantoの『団地』では、ニュータウンの道を走り抜ける車窓風景をシャッタースピードを過剰に上げて撮影することで、郊外で誰もが見たことがある道端の風景を機械の視点で再認識することを試みた。また、oh yes ahaの『桃色じゅうたん』では、『団地』と同じ撮影方法で、歌いながら走るボーカル太一さんの姿を撮影し、歌っている彼の独特な動きの一瞬一瞬を捉えている。

 このように、これまで捉え過ぎてしまうというカメラの面白さを使った表現をしてきたのだが、今回は逆に速すぎてもはや何も捉えられていない面白さも見てみたくなった。カメラはシャッタースピードを上げれば動きを捉え過ぎてしまうが、シャッタースピードを下げれば動く被写体を捉えることができない。ブレがただの光の線の集合になり、実体のない「夏の夢」のように見えるのではないか。このミュージックビデオの表現としてもぴったりだと思った。

 このシーンはカメラを手で持ちながら海岸を走って撮影することになったのだが、私は走るのが遅過ぎて、成塚君の全力疾走に追いつくことができなかった。そのため、このシーンは私の夫であるcorner of kantoの矢部がカメラを持って走っている。映像がカメラを持って走る手や足に合わせて揺れていて、カメラマンの身体性が伝わってくる。撮影される人と撮影している人の速さが掛け合わせられることによって、きれいに撮影された映像とは一味違った疾走感が生まれたと思う。

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 上の画像を見てもらうとわかるのだが、成塚君がオレンジ色の凧を持って走っているように見える像の1コマ1コマは、実はよくわからない線の集まりである。これが何枚も映し出されると、走っているように見えるのだから、面白い。

 映像を楽しむ時には、ストーリーや構図は言うまでもなく重要であるが、映像に特有の表現も同時に重要な側面であると考える。ストーリーだけを伝えるのであれば小説という手法もあるし、構図の美しさであれば写真という手法も取れるが、映像という表現手法を選んだ必然性が欲しい。そのために、これからも映像作品を作る時には、「映像とは何か」「映像だからこそできることは何か」を意識的に考え、映像にしかない面白さを少しずつ発見していきたい。

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